知覧特攻平和会館に行ってきました
- 原田竜馬

- 11月6日
- 読了時間: 3分
私は、祖母や叔母・いとこが鹿児島におりまして、私にも鹿児島の血が流れていることから、東京世田谷鹿児島県人会に所属し、青年部長を務めております。
会では鹿児島の歴史や文化等、様々教わっているのですが、多くの先輩方の口から出てくるのは、「知覧特攻平和会館に人生で一度は訪れるべきだ」ということでした。 少し前、映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』などで注目をされましたが、かねてから、私も本当に行きたい場所として挙げていました。
これまで、広島の原爆死没者追悼平和祈念館や沖縄のひめゆり平和祈念資料館、アウシュビッツなどの戦争や平和に関わる施設に訪れたことはありますが、これまで訪れた場所で感じた感情とはまた違った、今までにないような感情で一杯になる、誰しもが訪れるべき場所であると強く感じたところです。
知覧の地から、特攻隊として飛び立った彼らは10代や20代。私よりも若い青年が特攻隊として飛び立っていったわけです。特攻平和会館には、彼らの手紙や遺言、写真など当時の状況や彼らの思いを知ることができる資料が展示されています。そのような展示を見ながら彼らの当時の気持ちを想像することはできるかもしれません。しかし、私達ができる想像を遥かに越えるような、私達が表現することができない気持ちを抱いていたのだろうと思うと、目頭が熱くなりました。
彼らは、「特攻隊」として、時に日本のために命を犠牲にして戦った「英雄」として扱われるかもしれません。遺言や手紙の内容は、10、20代の青年にしては、余りにもたくましすぎました。一方、苦悩や不安、葛藤も垣間見える内容に、英雄と言われる所以を感じると共に、彼らは英雄ではなく、犠牲となった「生きたかった」若者達であるのではないかとも感じました。知覧から飛び立ち、特攻の目標まで約2時間の飛行、狭い機内の中で何を思い飛行をしていたのか。十代や二十代の彼らが、未来を夢見ることも、恋をすることもできずに、ただ国のためにと、「笑って」旅立っていった。その笑顔の裏にどれほどの恐怖や葛藤があったのか。
僕と同じ年代、更に若くして国のために命を落としていった彼らが、今の世の中を見たら何を感じるか。彼らが生きることができなかった未来に、今、自分が生きているという事実。その重さと有難さが、身体の芯まで沁みてくる場所でした。
行かれたことのない方は、是非とも一度、足をお運びいただきたいと思います。 彼らが生きることができなかった未来、繋いでくれた今の日本がこれからも戦争のない平和な社会であり続けることができるように、汗を流していきたいと思います。

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